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109号

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109号 会報「育友」
新入生特集 大学で何をし何を得るのか
寄稿 専修大学で学ぶということ
―感動と気概を持って「専大生を生きる」ために―
経済学部教授 佐島 直子
経済学部教授 佐島 直子
国際政治学、地域安全保障を専門とし、研究テーマはアジア・太平洋地域の同盟関係、戦略文化、対テロ対策。主な著作は、『国際安全保障論T−転換するパラダイム−』(内外出版:H19年)、共編著書・編集代表『現代安全保障用語事典(日英対訳)』(信山社:H16年)、『誰も知らない防衛庁―女性キャリアが駆け抜けた、輝ける歯車の日々』(角川書店:H13年)など。テレビ朝日系列『朝まで生テレビ』で論客としても活躍。
私は「専大生」を「三つの眼」で見ている。

第一に、「職業人の眼」である。

というのも、私は2001年4月に専修大学に入職するまで約20年間、某官庁に勤務していた。その「仕事」を通じて、様々な大学出身の上司や同僚、交渉相手と接した。とりわけ、採用担当者だった2年間には、社会への第一歩がなかなか踏み出せずにいる数多くの若者と出会った。つまり、私は長く「職業人」として、出口(就職)の方角から様々な「大学生」を見てきたわけで、その経験から断言したいのは、「専大生」が、日本社会の中で実に恵まれたポジションにいる、アドバンテージを持っているということだ。

なぜなら、「専大生」は、既に堅牢な社会的信用を得ているからである。130年の歴史と伝統は伊達ではない。質実剛健、報恩奉仕の校風は、確実に専大出身者に受け継がれ、「組織の中堅を担う人材」という高い評価と確信が日本社会に定着している。私が個人的に接した専大出身者の仕事ぶりを思い起こしてもそれは間違っていない。昨今の大学の価値はともすれば、入学試験の偏差値(入口)でとらえられがちだ。しかし「職業人の眼」から見た「専大生」の評価は入学時のそれを凌駕している。専修大学に入学する、「専大生」になる、専修大学で学ぶということはまさに社会的信頼の鎖に連なることである。そして「専大生を生きる」ということはこの連鎖に自らも貢献し、新たな歴史を構築していくことを意味する。私は現役の「専大生」に是非、そのことに気づいてほしいと願っている。

第二の眼は、「母の眼」である。

実は、私は1998年の4月に一人娘を事故で亡くした。享年19歳。理工系大学で工業化学を専攻する2年生だった。その深い悲しみと喪失感から、私はなかなか立ち直れず、役所を辞めて大学の教員となることを決意したのも、娘と同じ年頃の学生達と接していれば、元気になれるかもしれない、生き直せるかもしれない、と考えたからである。娘は生きていれば既に20代も後半の年齢だが、私の中ではいつまでも青春を謳歌している大学生であって、言ってみれば私は永遠に「大学生の母」であり、「永遠の父兄」として「専大生」に「夢と希望」を託している。

こんな眼で見た「専大生」という子供は、実に素直で可愛い。

しかも、「迷える子羊」ばかりだ。必ずしも第一志望として入学してきたわけではない学生が多いせいか、驚くほど未来に怯え、自信をなくしている。「母」としては何ともいたたまれず、何かしてやれることはないものか、と思いあぐねる。親というのは、子供の人生を自らのそれの延長のように考え、ついつい過剰に干渉してしまうものらしい。

しかし、私が常々自らに言い聞かせていることは、「彼らが生きる20年は、私達が生きてきた20年ではない」ということだ。グローバリゼーションが急激に進展している現代において、彼らは、私達親が経験したことのない世界を生きていく。そんな彼らに親の「限られた経験」や「異なる過去」からの「思い」を軽々と押し付けることはできない。

この点、幸い、「専大生」には、その多様な悩みや不安に答え、将来設計、キャリア・デザインの構築を支援するためのきめ細かなプログラムがいくつも用意されている。「専大生」はそれらを活用して、自らの足で立ち上がることができる。実のところ、「専大生」の親の役割は、人生の先輩として彼らの背をそっと押し、自立を促すだけで十分なのである。

第三の私の眼は、もちろん現役の「教師の眼」である。

冷静に「教師の眼」で、「専大生」を見るとき、私は「物足りなさ」を否めない。ちなみに私の専門は「国際安全保障」であり、今でこそ、若い研究者の数も急増しているが、学問としてはまだまだ未成熟な分野である。このような新しい知的領域を開拓し続けてきた私には、「専大生」の受身に徹した学習態度が歯がゆくてならない。

「母の眼」からはいとおしいと思える彼らの従順さも、見方を変えれば「知的好奇心」に乏しく「批判的考察力」に欠けることを意味する。「学ぶこと」を「覚えること」、「まねること」と誤解し、「満足」している。もちろんこれは彼ら自身の責任とはいえない。日本の公教育、受験勉強の弊害を「素直に」負ってしまっている「専大生」が多く、彼らは「学ぶ喜び」、「考える喜び」、「知をもって遊ぶ喜び」を知らないだけなのだ。しかしながら、そもそも「学び」とは、白紙のキャンバスに自在に絵を描くように、自らの知性を創造することではあるまいか。

而して、私の「専大生」への提案は、もっと「与えられるもの」を疑ってほしい、ということである。教師の言葉なんか信じるな、教科書なんか覚えるな、と言ったら他の先生方に叱られるかもしれないが、変容著しい21世紀において、未来を自らの力で切り開いていくためには、「まね事ではない知性」と「強い意思」が不可欠である。もはや「専大生」に「予定調和」のような安定した人生が用意されているわけではない。誰かの受け売り、丸写しではこれからの社会に出て何の役にも立ちはしない。

なにより、現下の専修大学が克己している「社会知性」は、この「未来に通用する能力と個性」の創出を目指すものである。そのために専修大学は既存の学部カリキュラム(コース・メニュー)の範疇にとどまらない多彩な学びの選択肢(アラカルト・メニュー)を用意しており、「専大生」は、自らの知的嗜好に応じて、求めれば求めるだけ「知を遊ぶ」ことができる。「専修大学」は、学生ひとりひとりの知的潜在性を引き出す多様な機会を提供しており、これを存分に利用しないのはなんとももったいないことである。

つまり、私の「三つの眼」で見た「専大生」は優れて恵まれた教育環境、就職条件にある。求めればいくつもの刺激的な挑戦が可能だし、それを支援する体制もよく整っている。いうなれば、「専大生」には、うらやましいほどの無限の可能性が眼前に広がっている。しかしながら、少なくない「専大生」がその有意性を見過ごしている。

だから私は声を大にして、「専修大学で学ぶということ」の大いなる意義を説く。それを知れば、必ずや日々感動と気概を持って「専大生を生きる」ことができるはずだ。

約束しよう。「専大生」は「生きるに値する価値を持つ」ことを。

著書紹介
国際安全保障論T─転換するパラダイム─内外出版:H19年
現代安全保障用語辞典(日英対訳) 信山社:H16年
誰も知らない防衛庁女性キャリアが駆け抜けた、輝ける歯車の日々 角川書店:H13年

著書紹介