専修大学育友会
書籍『専修大学創立者物語』(仮題)の概略
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相馬 永胤

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田尻 稲次郎

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目賀田 種太郎

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駒井 重格
明治4年7月、20歳の相馬永胤(彦根藩)はアメリカに旅だった。これより数ヶ月早く、田尻稲次郎(薩摩藩)はアメリカの土を踏んでいた。相馬と同年ながら、田尻自身は「学ならざれば二度と祖国の土を踏まず」という強い決意を胸に秘めていた。

その前年の9月には、目賀田種太郎(幕臣)が大学南校の第1回アメリカ留学生として横浜を発っていた。17歳を迎えたばかりだった。そして目賀田より1つ年長で、欧米の優れた学問を身につけたい、と憧れのように願っている若者がいた。駒井重格(桑名藩)である。明治7年12月、駒井が渡米した。

ここにいたってようやく4人にそれぞれに出会いを織りなす条件が生まれたのである。

明治9年5月、相馬は、コロンビア法律学校に学ぶ留学生仲間と語らい、日本法律会社を設立した。それが日本に本格的な法律学校を創ろう、というものになっていった。このような交流の中で、日本法律会社の枠を超え、相馬、目賀田は、経済専攻の田尻、駒井と熱く夢を語り合う同志的親交を結んでいくのである。

激論を闘わせ、ときにはつかみ合いの喧嘩もしたが、建学の志に燃えた留学生たちは、充分に力を蓄えていった。

明治10年5月、コロンビア法律学校を卒業した相馬は、エール大学の大学院に入学して、ニューヘブンに移った。すでに、田尻が文科におり、親交は一段と深まった。この年の8月、相馬、目賀田ら、日本法律会社の有志は、ホイットニー湖畔のバルソン氏宅で8日間の合宿を行った。午前中は、手分けして翻訳を行い、相馬がまとめた。午後は森に入り、スタンプスピーチを行った。

日本に法律学校を興したいという相馬らの夢は、日本に経済の学校を興したいという田尻、駒井らの夢とつながり、そのための結社である興学社が設立された。

明治12年8月、田尻と駒井が帰国した。別れの挨拶で、一人、声を立てず、涙をあふれさせながら、まっすぐ田尻を見ている年若い女がいた。

翌9月、相馬と目賀田がそろって帰国した。

こうして、建学の精神に燃える4人は、日本へその舞台を移したのである・・・。

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